本丸
本丸は堀越城の中央やや西側に位置しています。
やや不整な五角形の形をしており、高さ約3mの土塁と、幅15~20mの内堀に囲まれています。東側と西側の2か所に出入口(虎口[こぐち])があり、門の跡が確認されています。本丸東門は3棟の建物から成る、南北幅32.5mの規模を有する大型の建物で、内堀を隔てた三之丸とは木橋でつながっています。本丸西門は幅2.4mと狭く、両側に土塁が迫っています。二之丸とは土橋でつながっています。
本丸の北側やや東寄りからは、石の基礎(礎石)を使用した、城内で最も大きな建物跡が確認されています。「広間[ひろま]」と称するこの建物は、城主が家臣や使者と謁見[えっけん]する公的な場であり、城内で最も格式の高い建物であったと想定されています。なお、広間の南側からは庭と想定される痕跡も確認されています。
本丸内には、広間の他にも、城主の私的な(奥向きの)場である「居間」「台所」「長局[ながつぼね](大奥)」などの建物が建ち並び、本丸御殿[ごてん]を形成していたと考えられますが、これまでの発掘調査で全容が明らかとなったのは広間のみです。「居間」「台所」「長局」などの奥向きの建物群は、本丸の南西側から南側(現在の熊野宮境内)に位置していたものと思われます。
現在、本丸を取り囲んでいる土塁・内堀のかたちや、東西の門、本丸御殿広間などの建物は、弘前藩初代藩主津軽為信が、前身の大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3(1594)年に構築されたものと想定されています。建物については、その後、慶長16(1611)年に2代藩主信枚が弘前城へと本拠を移転した際に取り壊されたようです。
整備後の本丸(2014年)
本丸全景(2018年)
二之丸
二之丸は堀越城の北西側に位置しています。
平面形は、南北120m、東西40~50m前後の、南北に長い弓なりの長方形を呈しています。逆コの字状の土塁により、北・西・南の三方が取り囲まれており、さらにその外側が外堀で囲まれています。西側中央に位置する虎口[こぐち](出入口)で小丸[こまる]と、南東側の本丸とは土塁でつながっています。
整備前には、土塁は南西側の一部を除いて高さ1m程度まで削られていたほか、西側の外堀は完全に埋められていました。
今回の整備では、土塁は残存する基底部の幅や法面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3m規模で復元しています。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元しました。外堀は南北両側で約20mの幅を有しますが、宅地が近接するため西側は幅が狭い形状での整備にとどめています。土塁や外堀は、津軽為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した文禄3(1594)年に形成されたものと考えられます。この時期の遺構として平場からは、掘立柱建物跡、竪穴[たてあな]建物跡、焼土遺構、柱穴列跡などが確認されています。
平場の南側からは南北8間、東西3間の掘立柱建物跡が確認されているほか、中央では数棟の掘立柱建物跡が存在したものと想定されます。北側では20基前後の鍛冶炉と想定される焼土遺構や、竪穴建物跡1棟などが確認されています。
なお、曲輪[くるわ]の名称である「二之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称ですが、城として機能していた当時にどのように呼称されていたかは定かでありません。
三之丸
三之丸は堀越城の中央東側に位置しています。
平面形は東西150m、南北120m前後の、東西にやや長い長方形を呈しています。南北両側に土塁と外堀が構築されていますが、この土塁と外堀との間には、やや規模の小さい中土塁と二重堀がさらに構築されています。この土塁と堀の二重構造は、三之丸にのみ見られる特徴です。西側中央には内堀を渡り、本丸東門へと至る木橋が、また、南東側には虎口[こぐち](出入口)から外堀を渡り、外構[そとがまえ]と至る土橋が構築されています。
整備前には土塁は高さ1m程度まで削られていました。また、南東側の虎口は調査により発見されたものですが、弘前藩2代藩主津軽信枚による堀越城から弘前城への移転の際に意図的に埋められたようです。
今回の整備では、土塁は残存する基底部の幅や法面の傾斜角度、本丸に残る土塁などから推定し、外堀底面から約6~7m、平場から約3m規模で復元しています。また、外堀は主に明治時代以降の埋め土を除去し、可能な限り深さを復元しました。なお、外堀は北側で約20m、南側で約40mの幅を有します。
土塁や外堀は、文禄3(1594)年に弘前藩初代藩主津軽為信が大浦城から堀越城へと本拠を移転した際に形成されたものです。この時期の遺構として平場からは掘立柱建物跡、竪穴[たてあな]建物跡、柱穴列跡などが確認されています。平場の西側からは2棟の掘立柱建物跡、南東側の虎口からは南門跡と想定される掘立柱建物が確認されています。
なお、曲輪[くるわ]の名称である「三之丸」は、江戸時代の文献に記されていた呼称ですが、城として機能していた当時にどのように呼称されていたかは定かでありません。
外構
外構[そとがまえ]は堀越城の南側に位置しています。
平面形は東西300m、南北50m前後の、東西に長いひし形を呈しています。江戸時代の絵図や文献等では「館ノ岸」と呼ばれていた曲輪[くるわ]で、近世以降は田畑として使用されていたようです。
過去の調査で、北側の外堀から三之丸南虎口[こぐち]に至る土橋跡が確認されていますが、その土橋とつながり、外構を南北に貫く石敷きの通路が確認されています。
小丸
小丸[こまる]は堀越城の北西側に位置しています。
平面形は東西30~100m、南北170m前後の、南北に長い長方形を呈しています。江戸時代の絵図や文献等では、「館ノ内」、「三之丸」「三ノ郭」、「西郭」等と呼ばれており、土塁や堀で囲まれた曲輪[くるわ]として描かれています。
現況は、宅地や県道260号石川百田線、国道7号に接続する市道等が構築されており、曲輪範囲は不明瞭となっています。過去の試掘調査成果から、宅地や道路建設の影響が大きく、遺構の残存状況はあまりよくないようです。
北の曲輪
北の曲輪[きたのくるわ]は堀越城の北側に位置しています。
平面形は東西230~300m、南北30~110mの、東西に長く長方形を呈しています。江戸時代の絵図や文献等では、「館ノ岸」、「北郭」と呼ばれていました。
国道7号整備や土地造成のため、当時の様相は不明瞭となっていますが、一部が史跡指定され、エントランスエリアとして公開中です。
城下町
現在、堀越城跡の西側には堀越集落があり、コの字状に堀越城跡を囲うように広がっています。また、県道260号石川百田線が堀越集落の中央を通っています。天和4(1684)年の「堀越村書上絵図」等から推定される、当時の堀越城下町は現在の堀越集落に、石川方面から北西に延びる当時の羽州街道は現在の県道260号にほぼ重なっているものと想定されます。
堀越城と堀越集落(2018年)
堀越城と堀越集落(2016年)